雨が降っている。
屋根を打つざあざあという音が、分厚い雲に覆われた寒々しい空に響いている。冬の冷たい雨である。
四畳の、狭い部屋には火鉢が一つあるぎりで、当たっている胸や腕はぼんやりと温かいが、背中の方は寒い。
「雨はまだ止まないの」
自分の膝の上に、頭を乗せた女がそう云ったので、まだ止まんろう、と返す。
「帰りたいなが」
「・・・いいえ」
女は云ってから、体に掛けていた羽織を、肩の上まで引き上げて、自分の膝に顔を摺り寄せるようにした。
「もう少し、ね」
そうして、伏せていた目を閉じる。
格子の隙間から入るくらい光が、女の頬にうっすらと影を落としている。結うこともせず、ただ広がるままにしている長い髪を、自分はかろく梳いてやった。
「・・・雨が止んじょき、帰り」
ぴくりと女の目蓋が動く。
「帰るわ、雨が止んだら、」
「うん」
それぎり女は黙ってしまった。火鉢の底で、炭がはぜる音がやけに響く。自分も黙りこくって、ただ火鉢の音と、雨が瓦を打つ音だけを聞いていた。
この雨では往来を行く人もいないのだろう。ささやき声も気配も、まるで無い。ざあざあという雨の音と、ぱちぱちという炭の音と、それから女のかすかな息遣いと、それ以外は何も聞こえなかった。
自分は静かに目を閉じた。
「・・・ねえ」
ぽつりと女が呟く。閉じた目を薄く開けて、自分は聞き返した。
「なんじゃ」
「明日、晴れるかしら」
「・・・晴れるにかぁらん」
「でも、雨が降ってる」
「明日にゃあ、晴れるぜよ」
「・・・そうね」
「そうじゃ」
そうしてまた黙り込む。
格子越しの光は段々弱まってきている。もうすぐ日が暮れるのだろう。自分は右手に火箸を持って、火の具合を気にしている風に、二、三度炭を動かした。雨はまだ降っている。
ふう、と女のため息が自分の膝にかかった。女は羽織のなかで身を縮こませている。黒髪の合間から、白い頬が覗いている。
自分は腕を伸ばして、手の甲で女の白い頬を撫でた。女の頬は、陶器のように冷たかった。女は擽ったそうに身をよじる。
「明日、」
なおも頬を撫でていると、女がふいに呟いた。
「なに」
「明日・・・きてくださるの」そう訊く。
「・・・行くぜよ。きっと行く」
自分が応えると、そう、と小さく云った。
「わたし・・・幸せね」
「とてもいい人よ、やさしい人・・・ねえ、そう思わない」
「・・・そうじゃねゃあ、うん・・・そうじゃ、きっと」
女がかろく自分の膝を叩いた。僅かに見える口元が、柔らかく笑んでいる。目は長い髪に覆われて伺えない。
自分はなんとはなしに、女の目元にかかっている、湿りけを含んで心地よく重たい、冷たい髪をすくってやった。女はやはり目をつむっていた。見詰めていると、ゆっくりと目蓋を押し開けて、「なあに」と云った。
「・・・雨が止まんのう」
自分はやおら外を見やって、そう呟いた。
「・・・帰れないの」
「いんや、傘差して帰りゃあええがで」
「・・・そう」
冷えた膝頭に生ぬるい息を感じた。雨音は先程よりもいくぶんか弱い。
「明日は、きっと晴れるぜよ・・・」
「・・・そうね」
女はもう、こちらを見ようとはしない。火鉢の炭は、ほとんど灰になっている。
自分はもう一度目を閉じた。ただ、闇に雨の降る音だけが耳に響いていた。
(070410) 新約聖書 マタイ伝 22章