変な夢を見た。自分は鹿になって、平原を走っている。地平線の間際に、恥らうように半身を隠している夕陽に向かって、ひたすら足を動かし、走っている。その走っている姿を、自分は上から眺めている。無論その鹿は自分自身であるのだと、上から眺めている自分は知っている。と、鹿である自分の背に、なにやら奇妙なものがついているのに、上から眺めている自分は気が付く。自分はよく目を凝らしてそれを見る。それはすすきである。鹿である自分は、すすきを背に生やして、がむしゃらに走っている。すると急に、空を覆う雲もないのに、白くつめたい雪が降る。鹿である自分は、雪が降り積もったすすきをその背に負って、ただただ無心に日の落つる方へ走っている。走って、走って、走り続けて、足が鉛のように重くなる。それでも走っていると、ついにがくりと膝が折れたので、蹲り、深く息を吸ったところで、ようやくおれの目は覚めた。
桂がぱちりと目を開けると、薄く靄のかかったような視界に、小さな染みのある天井がうつった。しばらく呆然と、ぱちぱちまばたきをしてから、ゆっくりと起き上がってふうと息を吐く。それから、もう一度寝なおそうとしたが、障子紙に、夜明けの明りが薄く透けているのを見て、どうにも中途半端だなと思い直し、立ち上がって、箪笥の方へしのび足で歩んでいった。箪笥を開けて、ごそごそとやっていると、隣の布団で寝ていた妻が、寝ぼけまなこをこすりこすり、桂の方を向いて、どうなすったの、と訊いてきた。
「なんだか目が覚めてしまって。起こしたか、すまない」
「いいえ、それはいいんですけれども。あなた、なにかありましたか」
「どうして」
「お顔色が悪くてよ」
寝起きで血の気の引いた、真白い顔をして、眠たげに瞳を瞠った妻が訊くので、桂は苦笑を返した。そうして、帯を締めながら、「いや、たいしたことはない。どうも夢見が悪かっただけだ」と言った。妻は、少し眉間をよせて、夢見、と呟いた。
「ねえ、どんな夢を見なすったの」
「どうでもいいだろう、そんなこと」
帯を閉め終わった桂は、うっすらとひげの生えた顎を、指でさすりながら、わざと邪険に応えた。男子がたかが夢を気にしているなどと、あまり口に出したいことではない。
「それでも、気になるわ。ねえ」
普段は桂の些細な変化を、知って見ないふりをするのか、それとも本当に気づかぬのか、あまり気にかけることのない妻が、ことさら興味を示したので、桂は(おや)、と思った。
「おれの夢を気にするなんて。おまえ、そんなに心配性だったかい」
「心配というか、なんだか、とても気になるのよ」
ねえ、と夜着の襟をあわせなおして、せっついてくる。桂はしかたなく、先ほどの夢を語って聞かせた。妻は真剣な顔で、それを聞いている。話も終盤までくると、桂はなんだかばかばかしくなって、
「なあ、おまえ、たかだか夢を、夫婦で真剣に語るだなんて、そんなばかなことがあるかい。確かに変な夢ではあったが、それだけだ。何を気にすることがあるものか」
と、強引に締めくくって、終わらせてしまった。ところが、妻は聞いているのかいないのか、どこか上の空である。怪訝に思った桂が名を呼ぶと、はっ、としたように桂の顔を見て、なんだか捉えがたい表情をした。
「・・・あなた、今日、お出かけになるの」
そうして、急にそう問うてくる。桂は憮然とした顔で、ああそのつもりだが、と返す。
「それとこれと、どういう関係があるんだ。おまえの考えていることはさっぱりわからんよ」
「あなた、小太郎さん、今日は、外に出るのはおよしになって」
(なにをばかなことを)、と、桂は憤然とした。が、自分を見る妻の瞳が、あんまりひたむきなのを見て、ぐ、と言葉につまり、
「なぜだい」
と、不機嫌に言うだけにとどめた。妻は、眉根をよせて、かすれた声で言う。
「きっと、なにか善くないことがあるわ。お願い、お願いします。今日は、どこへもお行きにならないで」
「なぜそう思うんだ」
「なぜって・・・そう、思うんですもの。ばかげていると、わかっています。でも、きっと、なにか善くないことが・・・」
「ばかばかしい、おまえは、根拠もないのに、そんなことを言っているのか」
桂はほとほとあきれ果てたという体で、妻の言葉をさえぎった。妻はひるんだようすだったが、それでも、その真摯なまなざしを、桂から逸らそうとはしない。桂はため息を吐いて、今度はやさしげな声音で、諭すようにささやく。
「たかが夢に、何が出来よう。善くないことなど、おこるまいよ。日ごろから、不安な思いばかりさせていることは、申し訳なく思う。けれど、わるい予感など、たいがいは外れるものさ、そうだろう。おまえは、何も気に病むことはないよ。」
「あなた・・・」
釈然としないようすではあったが、妻はしぶしぶうなずいた。そうして、「きっと、帰ってくださいまし、やくそくですよ」と、小さく呟いた。桂は、それに鷹揚にうなずいて、「ああ、こんな話をしているうちに、すっかり朝になってしまったよ」と、障子をすらりと開けた。朝日が目にまばゆかった。
その夜、桂は家へ帰らなかった。桂のかわいがっている、ペットのエリザベスと、血染めの信玄袋だけが、妻の元に戻った。
いめののしか
(070619)
紅桜篇の裏側ということで、ひとつ。
なんか、わたしは桂のキャラを誤解している気がする。