以前旧友の桂に土産と称して宇宙生物、所謂天人を押し付けたことがある。あのときの桂の気持ちはこの様だったのだろうか、と坂本はサングラスの奥の瞳でデスクの上に置かれているものを眺めた。
部下の一人が御節介にも態々地球まで行って手に入れたものであるという。何故こんなものをと訊けば以前酒宴の席で坂本に伺ったところ、色よい返事を返したので、云々とのたまった。
自分の、酒が入ると何時もより一層いい加減になる性格を之ほど恨めしく思ったことは無い。デスクの上にある、漆塗りの中々立派な籠の中で今だ不思議そうに首を傾げているばかりの小鳥は、先程から微塵も動かない。その生の証である呼吸のたびに、胸の産毛をふわふわと僅かに揺らすのみである。
さてどうしたものか、と坂本は天を仰いで、ついで座っていた椅子の背で背骨をばきばきと鳴らす。
人に任せるという手もあるが、自ら請け負ったというのなら例えそれがアルコォルに浮かされてのことであっても、投げ出すのは無責任の様に思えた。何より、その様な適当な理由でこんな闇に囲まれた空間に連れて来られたこの小鳥が哀れである。「おんしゃーなんにも悪くないのにのー」と声を掛けてみると、驚いた様に瞠っていた漆黒の目をぱちくりと瞬かせた。

小鳥の名は、文鳥というのだそうだ。部下の話によると、徐々に慣らしていくと手に乗る様に迄成るらしい。世話は然程難しい様にも思えなかったが、少し面倒臭そうだった。
翌日から早速世話を始めるが、精々してやれるのは餌の取り替え、水の取り替えくらいである。船内では日光を浴びる事は殆ど無いので、部下に言われた様に水浴びをさせてやれる事はまず滅多に無いだろうなと思う。
餌や水を取り替える時分にも随分手間取った。籠の扉を少し開けてするりと手を入れると、文鳥は驚いてじたばたと暴れる。羽が籠にぱたぱたと当たって痛々しい。直ぐに抜こうとするが手が出入り口に引っ掛かって中々抜けない。気ばかり急いて、ようやっと全ての作業を終えた頃には籠の下に文鳥の翼から抜け落ちた幾本もの羽が舞っていた。
仮にも一企業の長を務めている身なので、商談やら何やらで方々に出掛ける事が多い。それ以外はデスクに齧り付いて書類の束と格闘している。文鳥は昼の間は坂本の仕事部屋の、窓辺あたりに置かれている。サインやら何やらをしていると、偶にちち、ちちと鳴くのが耳に心地よかった。

坂本の朝起きる時間はまちまちである。文鳥が来て暫くの頃こそ早く起きたが、やがて不断の如く六時に起きる事もあれば、十二時に起きる事もある不規則な日々になっていった。その内朝起きて直ぐやっていた文鳥の世話も、顔を洗って、飯を食ってからなどということが多くなった。夜の間籠に掛けてある黒い厚手の布を捲ってやると、慣れぬ蛍光灯の明かりが一斉に降掛るので瞳をぱちつかせる様子は如何にも健気であった。坂本は多少の申し訳なさを思う。
それでも文鳥は徐々に慣れてきたようで、坂本がデスクで仕事に追われているとき、自らの飲む水で行水をしたこともある。さらりさらりという微かな音は、女の薄い襦袢の、衣擦れの音の様であった。かと思えば二本ある止まり木を行ったり来たりして、千代千代と楽しげに歌う。坂本のデスクの置かれた場所からは文鳥の様子は見得ないが、真珠に薄紅を溶かし込んだような小さき嘴の淵から漏れるその音を聞くだけで、大層面白かった。

あくる日、坂本は文鳥の餌の取り替えをしていた。二日程世話を怠っていたので水はもう随分と少なくなっていたし、餌鉢の表面には粟の殻が浮いていて、中身のあるものは奥の方に沈んでいる。さぞ食べ辛かったろうと思いつつ、とんとんと床で軽く叩いて均し、ふうと息を吹きかけて殻を飛ばした。坂本は文鳥の世話の中で、唯一この作業を面白く感じていた。
餌鉢を籠の内に入れようとして、不図文鳥を見遣ると、首を軽く傾けたまま驚いた様にまん丸の黒い目を瞠っていた。坂本がそのまま動かずにじっとしていると、何を思ったかひらりと止まり木を飛び移って、ちちと鳴いた。
それを見て、坂本は不意に昔出逢った女を思い出した。文鳥の様に白い肌をした綺麗なひとで、淡い桜色の着物と、茄子の様な深い紫の帯を好んで着ていたが、坂本の記憶に善く残っているのは鮮やかな萌葱の帯止めであった。文鳥の目をぱちつかせる様子は、思い出してみれば成る程、その萌葱の帯止めの女によく似ていた。細く白い首を傾けると筋が少し浮き出ていて、それを指で伝うのが坂本の楽しみだった。


難しい商談がやっとまとまって船に戻ってみると、文鳥の籠は酷い有様だった。餌鉢の中は殆ど殻で、水も申し訳程度しかなく、文鳥の小さな嘴であっても掬えない程の様に思われた。
坂本は慌てて餌を取り替え、水を入れ替え、籠を掃除してやった。籠の内で坂本の無骨な掌に生死を決められるこの小鳥が哀れに思えた。文鳥はいつかの様に首を軽く傾けてから、千代と鳴いて粟を突付き始めた。

二日後、坂本は懐かしの地球に降り立った。見晴らしの良い丘で漆塗りの籠を開け放してやると、文鳥は少しの間不思議そうに止まり木を行ったり来たりしていた。中々出ようとしないので、あと三十の内に出なければもう一度連れて帰ろうと思っていると、今までの躊躇いの影もなく勢い良く飛び立っていった。
坂本はその内に、あの萌葱の帯止めの女の、白無垢姿を思い出す。







(060827)   文鳥 夏目漱石