銀時は、右手に持っている花束をついと軽く振った。頭上高くのっぺりと横たわっている、薄い色の空には、鰯雲がのびのびと広がっており、西の空の果てには、唐紅の夕陽が赤赤と燃えている。
どこかから子供の謡う声が聞こえた。土手はもとより人通りが少ないうえ、陽ももうすぐ暮れようかというこんな時間には、誰も歩いていない。銀時はひとり、子供の唄に耳を澄まし、ゆうゆうと歩いていた。
からす、からす、からすといっしょにかーえろ・・・
唄を囃したてるように、子供たちは叫んでいる。きゃっきゃとはしゃぐ声もやがて遠ざかり、辺りはいよいよ静かである。ただ、草木の触れ合うさわさわという音が響いている。
銀時はゆったりと進めていた歩みをやめ、空を見上げた。赤みがかった紫から、朱色、橙、白みがかった青から、薄青と、あわい紫の混ざったような色、それから薄い青、そこから段々と濃くなって、東の空は紺に染まっている。昔銀時が空を見上げる余裕さえなかったころ、その美しさを教えてくれた女のもとへ今、銀時は行こうとしている。
若い頃の思い出は、銀時にとって辛いものが多い。そんななかで、その女と過ごした時間は、銀時が思い出して微笑むことのできる、数少ないものである。粋な女だった。秋が好きで、よく空を見上げていた。
かなかなかな・・・とひぐらしが啼いている。こおろぎよりも鈴虫よりも、女はこの音色を愛した。縁側に並んでよく、女の淹れた茶を飲みながら、二人で耳を澄ました。銀時は女に思いをめぐらせながら、もう一度歩き始める。
銀時が覚えているかぎりでは、女は、ひっそりとした日本家屋に、息をひそめるようにして静かに暮らしていたはずだった。女の死ぬときは、この家の裏にでも埋葬するのだろうと、なんとなく思っていたことを銀時は覚えている。そして、そのとき女を埋めるのはきっと自分なのだと、何の根拠もなく銀時は信じていた。銀時はその頃、すでに攘夷に関わっていたから、どう考えても死ぬのは銀時の方が先であろうというのに、なぜか銀時はそう確信していた。
女のもとを離れたのは、心変わりだとかではなかった。ただ、そういう時代だったからとしか言いようがない。戦争が始まって、銀時は女の家を出た。それから今まで、思い出すことはあっても家をおとなうことはなかった。女が結婚したと、風の便りで聞いたからだ。
口惜しく思ったわけではむろんない。それを聞いても銀時は、(ああ、そうか、もうそんなにたつのか)としか思わなかった。ただ、それから数年後に、その良人から連絡が来て、女が亡くなったと聞いたときは、さすがに驚いたし、それを哀しいと感じた。女に未練があったわけではなく、そもそも銀時は女に逢うつもりなど毛頭なかったのだが、これから、あの女と過ごした、あまりにも落ち着いた時間を思い出すとき、そこには必ず死というくらい影がちらつくのだと、そのことが寂しかった。
女の良人は、遺品から偶然に銀時のことを探しあて、葬儀やらなにやらの連絡を寄越してきたのだが、銀時は結局女の葬式には出なかった。というのも、その良人というのがなかなかの家柄らしく、そういう行事ははでにやるそうなので、なんだか気がそがれたのだ。女の墓所というのも、どこそこの割りあい立派な寺にある、と聞いていたが、どうもそういうのは銀時の肌に合わない。銀時だけではなく、彼の記憶のなかの女にもなんだか当て嵌まらないような気がした。団子一串を、幸せそうにかみ締めて食う女に逢いに、わざわざみかげ石の前まで行く必要はないと思った。女はきっと、そんなところにはいないのだろう。もしもいるとしたら、女が愛した、あの少し古ぼけた日本家屋だ。あるいは、そこにいるのは銀時と過ごした日日の、ほんのわずかな面影かもしれないけれど。
そういうわけで、銀時はいま、人のいないような土手を歩いている。少し前までは、重たそうにこうべを垂れて、金色の穂を、風にゆらゆらなびかせる稲が、びっしりとなった田が延々と続いていたが、いまではもうその田圃のすがたすら見あたらない。代わりとでもいうようにあたりに生い茂っているのは、背高のっぽのきりん草である。鮮やかな黄に色づく穂先を誇るようにして、ぴんと立っている。歩いていると、見渡すかぎりのきりん草のなか、点点と群れている、それよりもさらにのっぽの尾花が、いかにも頼りなさげなかすみのような穂を、憂うようにうつむかせている。それを見て、月見の際、女がつくった団子の、その素朴な甘さを銀時は思い出した。いつの間にか陽は西の空に、その名残の送り火をたなびかせて、すっかりすがたを隠してしまっている。濃紺に染まりつつある空には、中途半端なかたちの月がぽっかりと浮かんでいる。あと幾日かで満月になるだろう。
(団子でも買うか)と、銀時は考えた。(どうせ今年はあいつらがいるんだ、みんなで月見でもしよう)
西陽の名残は、目をはなした隙に、もう消えかけている。天道のあったところだけほの明るく、紫とわずかな橙があるだけで、あたりはすっかり暗い。虫が鳴き始めている。くさむらの陰に隠れながら、銀時の歩みにあわせて、音色をひそめたり響かせたりしている。ひぐらしの声はいつの間に消えている。
銀時はもう一度、右手に持った大輪の菊の花束を、軽くついと振った。
女の家は近い。











(070205)
小学生の頃、国語の教科書を朗読しているテープを一回は流しませんでしたか?急にあの、低い女性の声が懐かしくなって、なるべく教科書に出てくるような、ひらがなの多い話にしてみました。というか、なってるといいな…。