常ならば耳の奥でさざめく声たちは、今はなりを潜めている。
霧がかかったように一面ミルク色の、気が狂いそうなくらい広い(まるで果てがないようにどこまでも平らだった)場所に、私はいた。これは夢だと、私は瞬時に理解した。
幼いときから、私は夢の中ではこの場所にいた。霧のような、靄のようなミルク色は声をさえぎっているようで、まるで私を声から庇護しているようだった。
ぼんやりと、流動しているようで何も変化のない空気を見つめていると、濃いミルク色の隙間から零れる、漆黒のなにかが見えた。そうして、それは見る間に形をあらわし、白磁のような肌の美貌の少年となった。
アンダーピープル
「やあ、こんにちは」
その少年はにこりと微笑んで、みどりの黒髪をさらさらと揺らした。
「前から、ここにいたんだ。きみ、気づいていた?」
「ええ」
「そうなの。ねえ、きみ、声が聞こえるでしょう」
「ええ」
「僕の声も聞こえていた?」
「さあ」
「僕、ずっと叫んでいたんだよ。僕は殺されたんだ!って、きみに」
「そう」
「うん、そうなんだ」
少年は瞳を伏せて私を見た。濃いブルーの瞳をしていた。
「きみはそうやって、聞こえる悲劇も何も、知らないって顔をしているんだね」
「ええ」
「きみは自分が、狂っているって思ってるんでしょう」
「ええ」
「聞こえてくる事実が、すべて本当だったら、きみは押し潰されてしまうものね」
「そうだね」
「責任を負うのが、こわい?」
「誰だってそうでしょう」
「他人のことなんか、何一つ理解できないくせに」
「あんただって、そうでしょう」
「・・・違うよ」
「そうなの」
「うん、一人だけ」
「そう、羨ましいな」
そう言うと、少年は眉尻を下げて笑った。それから、私の手をとって、「きみの名前は?」と訊いた。
「あんたに教える必要があるの」
「ないよ。僕が知りたいだけ」
「教えない」
「そう、じゃあ僕も教えない」
「そう」
「・・・ねえ、名前がないと不便だよ」
「どうして」
「だって、これから夢の中で会うたびに、どうやって呼びかけるか迷うだろう」
「会わないよ」
「会うよ。僕はここにいるし、きみは眠るたびにここに来るんだから。もっとも、それが夢として認識されるかどうかは、起きてからのきみによるけど」
少年はそう言うと、首をかしげて私を見た。私は少しそれを見て、名前を言うよう催促されているのだと気がついた。
「名前は、教えない」
「・・・じゃあ、好きなように呼ぶよ。その代わり僕も教えない。きみも好きなように呼ぶといいよ」
「起きたら、きっと忘れるよ」
「それでもいいよ、アンダーピープル」
「何、それ」
「きみの名前。ぴったりだろう」
「皮肉屋だね」
「意外でしょう」
少年はまた笑った。よく笑う、と私は思う。ミルク色が纏わりつくように重くなる。覚醒の兆しだ。
少年の纏っている黒が、僅かに薄らぐ。
「・・・ババロワ・サンダラボッチ」
「なんだって?」
「ババロワ・サンダラボッチ。あんたの名前」
「・・・変な名前」
「誰かを待っている人のところにしか行けないやつだよ」
「へえ」
「昔読んだ、小説に出てきたの。夜色のマントを纏って」
「ああ、それで」
少年の姿が揺らいだ。まるで眠りに堕ちるときのように意識が消えゆくなかで、少年の囁きが、耳に残って離れなかった。
「忘れないで」と、ババロワ・サンダラボッチは言った。
暗 く な り 待 ち
(070826)
キャラがわからないということに書いて初めて気がついた。
『暗くなり待ち』(舟崎克彦)