ウルフさん、という人がいる。
もちろんその呼び名はあだ名のようなもので、探偵をやっている、なんだかとても不思議な人だ。顔がオオカミに似ているから、ウルフっていうんだよ、と彼の小さな友人は言っていたけれど、顔というより、全体的な雰囲気がとても鋭い人だったので、ウルフという呼び名でもなんら違和感はなかった。ので、私も彼のことをウルフさんと呼んでいる。
彼の小さな友人、私の行きつけのパン屋さんの息子で、明くんという男の子は、ウルフさんを「不思議なこと専門の探偵」と言っていたけれど、ウルフさん自身から詳しい内容は聞かなかったので、私は彼が具体的にどんなことをしているのかはよく知らない。けれど、彼のひととなりは、いくら時間をかけて彼と接しても、完璧にはわからないような気がした。見た目の鋭さに反して、ウルフさんは紳士的な人だ。口調も丁寧だし、いやみなところのない、優しい人だ。しかし同時に、それで全てではないような、底の見えないような感覚を覚えさせる人でもあった。
私とウルフさんの現在の関係は飲み友達だ。彼の小さな友人とは間違ってもできないことをする関係だ。ウルフさんは大抵焼酎を一、二杯飲み、私は軽いサワーを一杯頼んで、少しずつ飲んでゆく。そしてぽつりぽつりと話す。「ウルフさん、最近お仕事どうですか」「依頼はなかなかきませんね。わたしはまあそれでもいいんだけれど、明くんにはっぱをかけられて」少し笑う。そんな話をする。ウルフさんは自分のことを「わたし」という。男の人には珍しいけれど、彼の気質にとても合っているような気がして、それをきくのは好きだ。
ウルフさんはたばこを吸う。お酒を飲んでいる間も、だいたい吸っている。見た感じでは、一日にひと箱は吸いきってしまっているんじゃないかと思うくらい。私はたばこが苦手だけれど、彼の長い指にたばこが収まっているのを見るのは好きだ。たばこを吸っている横顔も、とても。けれど、たまにたばこの匂いにむせてしまうときがある。そんなときウルフさんは少し眉を下げて、慌ててたばこをもみ消してしまう。私は「いいんです、すぐおさまりますから」と言うのだけれど、結局ウルフさんはその後はたばこを吸うのを我慢してくれる。それがすこしもったいなくて申し訳なくて、でもとても嬉しい。
ウルフさんと飲みに行くのは大抵土曜日で、次の日がお休みだからか、よく遅くまで飲んでしまう。飲みに行く居酒屋さんはおおむね繁華街の近くにあるので、私は一人で帰ろうとするけれど、ウルフさんは、夜道は危ないと、彼のアパートとは反対方向にある、私のアパートまで送ってくれる。一人暮らしだから、最初は少し警戒したけれど、ウルフさんは絶対にアパートの階段下までしか送らない。おやすみ、と低い声で言われると、なんだか泣きたくなる。悲しくはないのに、ただ、泣きたくなる。
おかしな話だけど、ウルフさんといると、ときどきとても不安になる。私はウルフさんがどこから来たのか、何をしているのか、ほとんど知らない。本当の名前すら知らない。だから、彼はこの町にたしかに存在しているのに、その証拠だっていくらでもあるのに、いつかふっと消えてしまいそうな気がしてならない。
一度だけ、ウルフさんにきいてみたことがある。「ウルフさん、この町を出たいと思ったことはありますか?」
彼は少し目を瞠って、それからくしゃりと笑って、「一度もありませんよ」と答えた。
「でも、いつかは、出ていくときがくるかもしれませんね」
ウルフさんは、冗談めかしたようにそう言った。
「そのときは、ちゃんと言ってください」
それは本当に冗談だったのかもしれない。それでもそう返さずにいられなかった。そうしなければ、彼は本当にある日突然、まるで最初から存在なんてしなかったかのようにいなくなってしまう気がした。本当におかしな話だけれど。
ウルフさんは、私の言葉に答えなかった。頷きもしなかった。黙って、ただグラスをからからと揺らしていた。
ウルフさんはまだ、消えていない。今日も事務所に顔を出し、明くんとゲームをしたり、推理小説を読んだり、もしかしたらなにか依頼をうけて調査をしているかもしれない。
でも、明日も、明後日も、ウルフさんがずっとこの町にいる保証はない。私はあのとき気付いてしまった。きっと、あの言葉は冗談なんかじゃなかった。冗談めかしていたけれど、ウルフさんは本当に、いつか、時が来ればこの町を出ていってしまうだろう。誰にも何も言わず、消えるように。
(091230) ついに書いてしまった三田村信行さんのウルフ探偵。とりあえずウルフさんのかっこよさは異常です。