「わたしは、海の向こうから来たんです」
その数日前、ウルフさんから聞いたその言葉がずっと、耳から離れない。


ウルフさんのふだんの素行について警察から訊かれたあと、私はふらふらと明くんのおうちのパン屋へ行った。彼の小さな友人と会って、彼が他人を傷つけるようなひとではないということを確認したかった。些細なトラブルから発展した傷害事件、その犯人がウルフさんだなんて信じられなかった。
けれどパン屋に明くんはいなかった。明くんのお母さんが、ウルフさんのことを話してくる。ウルフさんが人を傷つけたなんて信じていないはずなのに、それは違うと言いきれなかった。彼を犯人だと指し示す証拠は山ほどあった。
パン屋をでて、路地を歩く。ぼーっとしたまま角を曲がると、そこに明くんがいた。私以上に呆けた、泣きそうな顔をしていた。
「明くん、ウルフさんのこと」
「いっちゃった」
私の言葉をさえぎるようにして、明くんが言った。泣きそうな、おびえたような目。
「ウルフさん、いっちゃったよ」
もう帰ってこないって。
それだけ言うと、明くんは泣きだした。しゃくりあげる隙間に、「ごめん」とかすかに聞こえる。
「・・・そ、なんだ」
明くんの頭をなでながら、「教えてくれてありがとう。あやまることなんかないよ」といったけれど、明くんはますます泣いて、「ごめんなさい」と繰り返した。あまりに明くんが泣くので、頭や背中を撫でるので精いっぱいで、私の目から涙は流れなかった。
ウルフさん、いつかって、こういうことだったんですか?いつか町中の人から厭われるのをあなたは気が付いていたんですか?本当に私には何も言わずにいっちゃったんですね。でも、明くんにお別れしてくれたから、少しはましかな。私は、あなたは誰にも何も言わず、消えてしまうと思ってたから。
ウルフさんに話したいことはたくさんあった。
でも、まずは彼とわたしの小さな友人を慰めなければいけない。
明くんを抱きしめて、私の肩にもたれかからせる。ぎゅっと服を握りしめる小さな手を感じながら、私は目を閉じた。

瞼の奥に、ぎらりとつきささるような銀色の海がある。その波間にウルフさんの姿が見えたかと思うと、高波にのまれ、それきり姿を見せなかった。







(091230)   正体がばれたら即さよなら、っていうのがたまらなく好きです。オオカミはどこへいってもきらわれものなのさ。